経歴その2 [経歴]
何でこんなブログ書いてんのさ?と思う人はこちらをお読みください
http://tumarannikki.blog.so-net.ne.jp/2018-01-29
前回の経歴を読み返して思った。
自分文章力無さ過ぎ、下手くそ、経歴とか言って中途半端に感情入ってて全然ダメ。
あ~ボツにしてぇ~~~~~~~~~~。
でも書き直すとますます疲れそうだからやめた。
まぁ、こんなブログ誰も読んでいないだろうから好き勝手やらせていただきますよ。
苦情は受け付けない。
とりあえず続きを書く。
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高校時代続き
毒親や毒親戚、小学校時代のバカ担任のせいですっかりメンヘラになっていたため、妹の同級生や40代くらいの非常勤講師にしつこくアプローチしたりしてドン引きされまくった。
当然人間関係がうまくいくわけがない。
中学校からの持ち上がりで進学したので1年の時点で知り合いが半分以上いる状態だった。
よって、人間関係は相変わらず。
私の立ち位置は「何をやっても、ただそこに居るだけでも笑われたりからかわれたり気持ち悪がられたりする存在」だった。
家でも外でも私はサンドバッグのような扱いだった。
もちろん身体的な暴力は振るわれていない。
でも、みんなの鬱憤晴らしの道具のように扱われている気がしていた。
18歳で音楽大学に進学
専攻は声楽のまま。
大して評価されなかったが、ピアノよりはマシだった。
高校時代に担当していた声楽教師のそのまた先生である教授の門下生になった。
その教授は当時60歳近かったがくたびれた雰囲気はなく、姿勢が良く体の線もスマートでむしろ年齢よりも若く見えた。
おまけに元々お坊ちゃま育ちなため服装も立ち居振る舞いも洗練されており、学内ではかなり人気の高い人だった。
・・・・が、いかんせん物凄い毒舌だった。
本人に悪気ははく、相手の受け止め方次第ではウイットに富んだジョークに聞こえなくもないためそれが人気の理由の一つみたいな人だった。
私は豆腐メンタルなため一生懸命練習してきた歌を冗談交じりにけなされ続けるのに耐えきれず、ある日レッスン中に泣き出してしまい辛くて1度だけレッスンをサボったことがあった。
サボったのはそれきりでその後はずっと休まずにレッスンに通ったが。
学園祭の実行委員を嫌々ながらやった。
よくわからんが大学教授のババァが私を無理やり推薦し、断ったのに強引に押し付けてきた。
正直イベントの実行委員など最もやりたくない類のものなのに、何故かそういう
気の進まない話に限って強制的にやらされた。
(子供時代から現在に至るまでずっとそうだが)
実行委員をやっている最中は超絶ストレスで同級生から「顔が死んでる」と言われていた。
どうしてもやらなくてはいけない最低限のことだけやったが、コミュ障故に先輩とも折り合いが悪かった。
学園祭当日は自分の仕事はしたが詰め所にはほとんど行かず、他の場所に隠れてサボってばかりいた。
大学時代は個人単位で行動するのがメインなため、集団行動が苦手な私にとってはとても楽に感じた。
自分の取りたい講義に行き、自分の気に入った人とだけつるめばよかったからだ。
・・・とはいえ、常に一緒に行動する友達などいなかったのでほとんど単独行動ばかりしていた。
サークル活動は主に女声合唱団に所属。
他にも掛け持ちでやっていたが、ほとんど幽霊部員状態だった。
音楽を専攻していたのになぜか他の分野(外国語、法律、生物学など)を無駄に勉強し、図書館の常連になっていた。
卒業時に成績優秀者が代表演奏をするのだが、それにギリギリ入った。
メンヘラ具合は相変わらず。
後輩や教師など気に入った男性が現れると見境なくアタックしていた。
他の女性と話しているだけで嫉妬全開。
ストーカーまがいのこともした。
もちろん全部撃沈。
馬鹿だったと思う。
家庭内ではかなり前から妹にはバカにされまくっていて、大学時代からピークに突入していた。
ピークは社会人になってからも続いた。
両親の不仲もあり家ではいつもビクビクしていた。
何をしていても文句を言われたりバカにされたりする、そういう立ち位置だった。
学校でのいじめやからかいから開放されたのでかなり楽になったが、家では相変わらずだった。
恐らく私のつまらん人生の中でこの頃が何だかんだで一番マシだったかもしれない。
は~~~~~~~~~~疲れた。
今日はこれ以上は無理。
また今度書く。
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http://tumarannikki.blog.so-net.ne.jp/2018-01-29
前回の経歴を読み返して思った。
自分文章力無さ過ぎ、下手くそ、経歴とか言って中途半端に感情入ってて全然ダメ。
あ~ボツにしてぇ~~~~~~~~~~。
でも書き直すとますます疲れそうだからやめた。
まぁ、こんなブログ誰も読んでいないだろうから好き勝手やらせていただきますよ。
苦情は受け付けない。
とりあえず続きを書く。
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高校時代続き
毒親や毒親戚、小学校時代のバカ担任のせいですっかりメンヘラになっていたため、妹の同級生や40代くらいの非常勤講師にしつこくアプローチしたりしてドン引きされまくった。
当然人間関係がうまくいくわけがない。
中学校からの持ち上がりで進学したので1年の時点で知り合いが半分以上いる状態だった。
よって、人間関係は相変わらず。
私の立ち位置は「何をやっても、ただそこに居るだけでも笑われたりからかわれたり気持ち悪がられたりする存在」だった。
家でも外でも私はサンドバッグのような扱いだった。
もちろん身体的な暴力は振るわれていない。
でも、みんなの鬱憤晴らしの道具のように扱われている気がしていた。
18歳で音楽大学に進学
専攻は声楽のまま。
大して評価されなかったが、ピアノよりはマシだった。
高校時代に担当していた声楽教師のそのまた先生である教授の門下生になった。
その教授は当時60歳近かったがくたびれた雰囲気はなく、姿勢が良く体の線もスマートでむしろ年齢よりも若く見えた。
おまけに元々お坊ちゃま育ちなため服装も立ち居振る舞いも洗練されており、学内ではかなり人気の高い人だった。
・・・・が、いかんせん物凄い毒舌だった。
本人に悪気ははく、相手の受け止め方次第ではウイットに富んだジョークに聞こえなくもないためそれが人気の理由の一つみたいな人だった。
私は豆腐メンタルなため一生懸命練習してきた歌を冗談交じりにけなされ続けるのに耐えきれず、ある日レッスン中に泣き出してしまい辛くて1度だけレッスンをサボったことがあった。
サボったのはそれきりでその後はずっと休まずにレッスンに通ったが。
学園祭の実行委員を嫌々ながらやった。
よくわからんが大学教授のババァが私を無理やり推薦し、断ったのに強引に押し付けてきた。
正直イベントの実行委員など最もやりたくない類のものなのに、何故かそういう
気の進まない話に限って強制的にやらされた。
(子供時代から現在に至るまでずっとそうだが)
実行委員をやっている最中は超絶ストレスで同級生から「顔が死んでる」と言われていた。
どうしてもやらなくてはいけない最低限のことだけやったが、コミュ障故に先輩とも折り合いが悪かった。
学園祭当日は自分の仕事はしたが詰め所にはほとんど行かず、他の場所に隠れてサボってばかりいた。
大学時代は個人単位で行動するのがメインなため、集団行動が苦手な私にとってはとても楽に感じた。
自分の取りたい講義に行き、自分の気に入った人とだけつるめばよかったからだ。
・・・とはいえ、常に一緒に行動する友達などいなかったのでほとんど単独行動ばかりしていた。
サークル活動は主に女声合唱団に所属。
他にも掛け持ちでやっていたが、ほとんど幽霊部員状態だった。
音楽を専攻していたのになぜか他の分野(外国語、法律、生物学など)を無駄に勉強し、図書館の常連になっていた。
卒業時に成績優秀者が代表演奏をするのだが、それにギリギリ入った。
メンヘラ具合は相変わらず。
後輩や教師など気に入った男性が現れると見境なくアタックしていた。
他の女性と話しているだけで嫉妬全開。
ストーカーまがいのこともした。
もちろん全部撃沈。
馬鹿だったと思う。
家庭内ではかなり前から妹にはバカにされまくっていて、大学時代からピークに突入していた。
ピークは社会人になってからも続いた。
両親の不仲もあり家ではいつもビクビクしていた。
何をしていても文句を言われたりバカにされたりする、そういう立ち位置だった。
学校でのいじめやからかいから開放されたのでかなり楽になったが、家では相変わらずだった。
恐らく私のつまらん人生の中でこの頃が何だかんだで一番マシだったかもしれない。
は~~~~~~~~~~疲れた。
今日はこれ以上は無理。
また今度書く。
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