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経歴その3+現在の私 [経歴]

何でこんなブログ書いてんのさ?と思う人はこちらをお読みください
http://tumarannikki.blog.so-net.ne.jp/2018-01-29



昨日からトラウマを刺激しまくるようなネタを掴んでしまって胸糞悪い。




・・・・・経歴の続きを書く。
前回は比較的マシな回だったが、今回は子供の時から積み重なってきた悪いものが露見しツケが回ってきた感が半端なくなる。

とはいえ、赤の他人から見たら「なんだ大したことないじゃんw」と一笑に付す程度のものなんでしょうけど!

そういう奴に用はない。
二度と来るな。




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大学時代の後半から就職活動をした。
ちょうど就職氷河期だった。
過去最低か2番目くらいに就職率が低かった。
田舎の音大にいる女なんかがマトモな就職先にありつけるわけがない。
当然だがクソみたいな条件の就職口しかなかった。

今でこそ民営化したが当時の郵政省管轄の郵便局員や国税庁管轄の税務署員になるための国家公務員三種(高卒程度の人が対象)の採用試験に東大生が山のように押し寄せた時代。
公務員試験は地方公務員も含めて全滅。

就職課の担当教員に何とか紹介してもらってやっと内定を貰った就職先は銀行の子会社だった。
外国為替だけを処理しているいわゆるシェアードサービス会社。
条件は英語アレルギーでないことと、英文タイピングがブラインドタッチでできること。(3,000ワード/10分が最低ライン)

ただし、最初から正社員ではなかった。
一年間は派遣会社から派遣社員として勤務する「紹介予定派遣」という雇用形態。
派遣社員として一年間耐えられた人だけが正社員になることを許される。
そして派遣で働いている間は交通費もボーナスも退職金制度もない。
ちなみに、派遣社員の時の月給は額面で18万円。
一年耐えて晴れて正社員になったら月給は額面で17万円。
・・・・正社員になる代わりに給料をダウンさせられるとか、今の時代ならありえないだろ?
入ったばっかりで何もわからないペーペーより仕事のできる1年上の先輩の方が給料が低いとか冷静に考えたら理不尽極まりない。


ああ、なんてクソみたいな条件なんでしょう。


こうやって学生の弱みに漬け込んで足元見るような会社ばかり。
就職氷河期に就職活動をしなくてはならなかった世代は、他のどの世代と比べても経済的な意味で完全なる「負け組」だと思う。
自分達はほとんど旨味のない人生を強制されるのに上の世代からも下の世代からも搾取されまくり、社会的に殺されかかっていると言っても過言ではない。


しかし、頭の悪い音大生がまっとうな就職をするためには上記のようなクソ条件を飲むしかなかった。
少なくとも私には他の選択肢は無かった。
内定が他の会社から取れなかったから。
音楽の仕事のあてなんて無かった。
だから、働きながらでもいいからお金を貯めてオーディションを受けるなりプロダクション付属の養成所に入るなりしてチャンスを待つ方法を選んだ。
・・・・・今思えばこんな考え起こしたのがそもそもの間違いだったような気がする。



上記の会社で働きながら某アニメ製作会社の養成所に通った。
その間、学生時代から続けていた声楽、声楽を辞めた後はアニメシンガーの経営するボーカルスクールでボイトレ、茶道、養成所の先輩(というか先輩風を吹かせていた図々しいブス女)に半ば強引に紹介され通うことになった日本舞踊・・・これらの稽古事にも並行して通い課題をこなしながらオーディションを受けたり自主制作のオーディオドラマに参加したりとにかく多忙だった。
会社へは毎日5時起きして通勤。
がむしゃらに頑張ったがそれでも結果は芳しくなかった。
いくらオーディションを受けても落ち、養成所のディレクターから目をかけられることもない。
この時点で潔く諦めていれば・・・・・・・・


外為の会社には丸3年勤めた。
↑のようなレッスン三昧の生活を送りつつ安月給の会社へ埼玉県の西側から東京の皇居近くまで毎日5時起きして通うのはもう限界だった。
もう少し近く、そして給料の高いところに転職したかった。
だから正社員を辞めて時給の高い派遣社員になった。
当時は下手に正社員でいるよりも派遣社員の方が稼ぎが良い場合もあった。
その上、私は歌手や声優の仕事をしたいのであって会社員としてのキャリアには興味が沸かなかった。
なので正社員でなくてもとにかく自分の欲しい額の給料が貰えれば何でもよかった。







・・・・転職して数ヶ月後、うつ病とパニック障害を併発し半年以上働けなくなった。




派遣で就業していた先で先輩との折り合いが悪く「給料泥棒」扱いされ、何かと邪険にされることが増えた。
つまらない理由でケチをつけられた。
例えば化粧が地味すぎてしていないのと変わらないのが癇に障る、昼休みに別室で休んでいるのが気に入らない(上司に許可されていた、嫌がらせ等で精神的に限界だったので正規の休憩室以外で休んでいいか事前に相談していた)など。

それに加えて同じ職場の人に対しての揚げ足取りが激しかった。
その先輩たちは自分達が一番仕事をわかっていて一番うまくやっていると思っていたらしく、正社員の新人・上司・同年代のいずれの人たちについてもいちいち文句ばかり言っていた。
その雰囲気にとても耐えられなかった。
通常なら人の悪口など比較的スルーできるのだが、慣れない職場でフルタイムで働きながらレッスンに通いつめる生活に限界が来ていたのかもしれない。

疲れているはずなのに眠れない。
明け方までずっと起きていることも多くなった。
普通の会話をしているはずなのに涙が止まらなくなる。
突然動悸が激しくなりずっと止まらない。
とにかく人と合って話すのが辛い。

職場へ行くことがとても耐えられなくなり、派遣の担当者が引き留めてくれたのにもかかわらず退職をしてしまった。
(営業担当は「しばらく休んでからまた復職するのはどうか」と提案してくれていた)

リビングで泣きながら退職する旨を親に伝えた。

血縁者は誰も味方してくれなかった。

父親「お前がそんなメソメソした性格だからいじめられるんだ、いい加減にしろ」
母親「いつまでもメソメソ泣いてるんじゃありません、まったくすぐ泣くんだから」

また、病院に通いはじめてしばらくしてから妹に言われた言葉が忘れられない。
妹「お姉ちゃんさぁ、薬飲んで良くなったんじゃないの?普通に生活できてるのに何で働かないの?お父さんやお母さんが迷惑してるじゃん。早く働きなよ。」


私の身内はうつ病等の精神科の病気は「怠けたい人の言い訳」くらいにしか捉えておらず、自分達の無知を認めず、身内の罹った病気を調べようともしない連中である。


鬼畜だと思う。


近所の保健センターへ相談し精神科を紹介してもらった。
働けなくなって収入がゼロになったが、親は医療費を1円も出してくれなかった。
仕方がないので今まで貯めていた貯金を切り崩して病院に通った。
私は私で生活費を入れられなくて申し訳ない、などと思っていたので医療費を請求するなんてとんでもなかった。

退職後は父の扶養者になったため当然年金保険料の督促も来た。
とても払えるような状態ではなかった。
今でもその期間の年金保険料は未納のままである。


何とかしてアルバイトができるようになった頃には貯金がほぼゼロになっていた。
無理して夢を追いかけたせいで自分の努力が全部パーになった瞬間であった。


それでもバカな私は夢を諦められなかった。
アルバイトや派遣で食いつなぎながらレッスンに通い続けた。
時々SNSや動画投稿サイトで同人作品のテーマソングを歌って欲しいという依頼を受けた。

オーディションを受けていいところまで進んだ時には親にも報告したがその度に
「こんなの詐欺に決まっているからダメだ」
「お前は騙されている」
「変な仕事させられて後悔しても知らないからな」
「こんなに簡単にオーディションに受かるわけがない」
「あんたは甘ちゃんなんだからうまくいくわけがない」
「世の中甘くないんだからな(だから辞退するべき)」
・・・・このように言われて私の判断自体を否定されてきた。
どうせ反対されるに決まっているんだから言わなければいいのに、当時の私はなぜか「言わないともっと酷い目にあわされる」と信じて疑わなかった。
毒親に完全に洗脳されていた。


30代半ばになったある日、また涙が止まらなくなった。
もう、実家にいることも両親や妹に「お荷物」扱いされているのを感じながら生きていくのも無理だと思った。

限界だった。
何もかも全部捨ててしまいたくなった。
それまで頑張って通っていた習い事をほぼ全部辞めた。
歌だけは諦めきれず残した。

当初数年ほど父の事業を手伝っていたが、改めて転職することにした。
そして今度こそは実家を出ることに決めた。
実家を出ることを身内には一切言わず貯金をし物件探しをした。
親に引っ越す事を言ったのは引っ越しの手続きを全て終えた後だった。
妹には何も言わなかった。
突然全てを勝手に決めて出ていくことが後になってわかったからなのか、身内は呆気に取られているような様子だった。
「アレもダメ、これもダメ」ばかり言っていた奴らなのに、この時は本当に一言も反対されなかった。

父親も「そうか」くらいしか言わなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・奴らがこうやって本人の前で何もコメントしない場合には一定の心理的パターンがある。
心の中で「しめしめ」と思っている時である。
知り合いや親戚の前では体面を取り繕い、本人達がいなくなった後に本音をぶちまけている場面を嫌というほど見てきたのでよくわかる。


恐らく
「やっと厄介払いできて清々した」
というような心境だったのだろう。

ボロボロで汚くなったサンドバックにはもう用はなくなったから「粗大ごみ」として処分できてちょうどよかったと嬉々としていたに違いない。



都内に一人暮らしをしてしばらくしてから、今の夫と出会った。
音楽OKの物件に住んでいたが、一人暮らしをしているうちに音楽の事なんかどうでもよくなっていった。
とうとう歌のレッスンも辞めた。

賃貸物件の契約が切れるタイミングで夫の家に引っ越し、翌年入籍した。

結婚式は派手にやるような気分にはとてもなれなかったので、身内だけ(自分たちを含めて11人)で簡単に済ませた。
本当は結婚式自体したくないくらい「結婚式」に興味がなかった。
だが、夫側の親戚に面倒なババア(夫の祖母の妹)がいて体裁を整えるために仕方がなくやった。
私の身内はとりあえず全員参加したものの、私の結婚は正直どうでもいいと思っていただろう。
そして今もどうでもいい存在だと思っているだろう。
そういう奴らである。

何も期待してはならないと遅まきながら気づいた。



タイムマシーンが発明されて過去に戻れるのなら、あるいは何らかの方法で現在の記憶をそのままに人生をやり直せるなら、こんなバカな判断絶対しない。
派遣のように高時給ではなくても、じっくり探せば正社員でもクソ待遇じゃなく、長い目で見れば派遣より得な職場もあったはずだ。
レッスンに通わなければもっと貯金をして若いうちに職場の近い都心エリアに引っ越すことができたかもしれない。
もっと早く実家を出ていれば毒親に振り回されてうつ病を発症せずに済んだかもしれない。
(実家にずっといたことも叶いもしない夢をいたずらに追いかけ、自分を追い詰める原因の一つとなったからだ)
・・・・こんなことを考えても今更もう遅いが。


以上が私の経歴である。

どうだ、つまらん人生だろう?

生まれる前から不仲な毒親の悪影響を受け、
毒親のくだらない夫婦喧嘩に常にビクつき必死でご機嫌取りをし、
ストレスで張り裂けそうな心を抱えながら生きてきた。
何かの拍子で辛い精神が崩壊するようにいつも泣いてばかりいた。
そういう私を見て育った妹は私と同じ轍を踏まないように要領よく立ち回り、
いつしか要領が悪くいつも鬱憤晴らしのターゲットにされていた私を親と一緒に軽蔑したり罵ったりするようになった。

やりたいことをやりたいようにやると親に物凄い剣幕で怒られたり、
言うことを聞かないと後悔する等と脅され
自分の判断で行動する事が怖くなるように育てられた。
私は親の「人形」だった
「人形」は自分の判断では動かない
「人形」は口答えしない
だから私は自分の判断で行動したり自分の意見を言ったりすることが許されなかった。
親は私が意見を言うと必ず「ダメ」「甘い」「どうせうまくいかない」と否定した。

いつしか私は自分の行動が「親にどう思われるか」を基準に考えるようになった。
歌手や声優になることすらも、華のある職業で人気になれば親から一人前と認めてもらえるかもしれない、という淡い期待があったから目指していた。

小さい頃、車の中で両親が大喧嘩をしていて険悪なムードになった時、ご機嫌を取るために歌をうたったのをよく覚えている。
大人になってからもご機嫌取りをして歌っていた小さい頃と何も変わらなかったのだ。




つまらない人生。

つまらない毎日。

「生きててよかった」などと思える日が来るとはとても思えない。
何故なら私は
どうすれば自分が幸せなのか、
本当は何がしたかったのか、
どんなに頑張っても思い浮かべることができない段階まで来てしまっているから。


あ~あ、早く人生が終わらないかな。
早く終わらせて楽になりたい。
ずっと眠っていたい。







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タグ:経歴 過去
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